関連リンク
社団法人日本脳神経外科学会
日本脳卒中学会
日本脳卒中の外科学会

新着情報

〔2016年12月25日〕

「太田 富雄先生を偲んで」 -顧問 齋藤 勇先生より追悼文をご寄稿頂きました-

『 太田 富雄先生を偲んで 』
杏林大学名誉教授
富士脳障害研究所附属病院
理事長 齋藤 勇
 
「スパズム・シンポジウム」の創立者であり、わが敬愛する太田富雄先生は、平成28年11月27日帰らぬ人となった。85才の若さだった。学会にとっても、私にとっても痛恨の極みである。
 1985年「スパズム・シンポジウム」の第一回研究会を「脳血管攣縮は本当にスパズムか」を主題の下に大阪で開かれ、「脳血管攣縮の問題が解決される日まで、しつこく続けていくつもりである」と決意を述べられた。そして、第7回研究会(1991年)まで代表として活躍された。
 太田先生は、学究の人、発想豊かな人、そして、スポーツマンであった。
 バイオボンドを発明されて以来、常に新しいアイデアで研究を続けられ、晩年になっても、「脳の冷却を瞬時に完成する方法」を工夫し、実験を重ね、実用化すると言っておられた。そして実際、実験された成果を昨年の国際会議に発表されている。
 先生が発案されたJapan Coma Scale(JCS)は、日本国中使われている意識障害の評価基準である。先生のJCSに対する思い入れは極めて強く、これをさらにInternational Coma Scaleとして工夫され、国際的評価を受けるべく、Glasgow coma scaleのTeasdale教授に何回か面談されているが、「外人はどうもあかん」と嘆かれていた。
 教科書「脳神経外科学」(金芳堂)は、今でこそ多くの編者が参加されているが、初期(初版1975年)には、お一人で新しい文献の整理、執筆と大変な勢力を注がれておられた。「齋藤さん、手伝ってよ!」と何回か言われたが、「文献を追いかけるのは嫌ですよ」とお断りしたのが悔やまれる。
 1960年、先生が主催された「第14回脳卒中の外科研究会」では、発表をすべてビデオにする試みを導入された。
 脳神経外科塾(我々は太田副塾と呼んでいる)では、卒前教育の在り方に関し、常に「医学教育は臨床から始め、基礎医学は最終学年で」という持論を展開された。
日本脳神経外科学会野球大会も先生の発案で始められたものであり、70才を過ぎても投手を務めるべく鍛錬を重ねられていた。
 先生の姿勢の良さは学生時代のダンス部の部活の結果とも言われていた。ゴルフに対しては最後まで「やりたいなあ」と申されていたと、端和夫先生のお見舞いの際おっしゃっていられたとのことである。昨年、「齋藤さん、端君に勝ったよ」と、嬉しそうに言われていた姿が忘れられない。
 東洋思想に御同慶が深く、西田哲学に心酔されていた。
 脳ドックのあり方委員会の長をお願いしたが、「絶対病人を作らない」を信条に、日頃の脳ドックに取り組み、脳ドック施設認定委員会でも発言されていた。
 賢夫人の奥さんあっての太田先生でもあった。地元でのゴルフはいつも奥さんの運転で行かれていたし、学会で食事に困ると、「どうしよう?」と電話で相談されていた。
 以上、縷々ご業績を申し上げてきたが、まだまだ書き足りない。私個人として、学会に参加すれば必ずご一緒し、食事をしたり、時にはゴルフを楽しんだ。これからどうしよう、寂しい限りである。
 6月の軽井沢で開かれた脳ドックには「お腹の具合が悪い」と出席されなかった。30年以上のご厚情を頂いているが、このような事は一度も無かったので嫌な予感がした。その後、膵臓癌だという話が伝わり、端先生には「治療しない」とのことだった。筆者がお会いしに行く間も無いまま急速に悪化されてしまい、できることはただ祈ることだけだった。
 以前より、脳死による移植には絶対反対で、無理な延命を望まない姿勢の先生は、静かな死を迎えられたものと思う。
 心からのご冥福をお祈り申し上げます。
 
2016年12月25日
 

前のページへ戻る

ページのトップへ